加藤氏の世の中への問題意識が覚醒したのは、大学時代であった。1968年に早稲田大学政治経済学部に入学。専攻は国際政治学だった。この大学時代に「ジャーナリスト的な志向を強く持ったバックパッカー」という、その後の加藤則芳氏を特徴付ける核となる部分ができあがっていく。
時代はベトナム反戦運動、全国学園紛争、ヒッピームーブメントなど、カウンターカルチャー (※5)全盛の頃。若者を中心とした多くの人々が、世の中のメインストリームにあった社会・政治のあり方や価値観に対して「NO」と叫んでいた。その時代のど真ん中を大学生として過ごした加藤氏は、この頃から世の中や社会のあり方に、より意識的になっていく。
「自然好き、山好きのぼくは高校生時代まであまり社会問題への意識が高くはなく、平穏だらりという生活を送っていた。そのぼくが変わったのは、大学に入り、学生運動(※6)を目の当たりにすることにより、取り巻く社会問題への意識を高めるべきだと自らを啓発するようになってからだった。」(『ロングトレイルという冒険』より)
※5 カウンターカルチャー…反戦、反資本主義、反消費主義、反文明主義などを掲げた、対抗文化のムーヴメント。主に1960年代前半にアメリカと西ヨーロッパで発生し、1960年代半ばから日本にも広まったムーヴメントを指す。特にアメリカにおいて、ヒッピー、ベトナム反戦運動、公民権運動、環境保護運動など、若者を中心とするムーヴメントとして隆盛をきわめた。
※6 学生運動…1960〜70年代にカウンターカルチャーの一環として起こった、学生を中心にした反対運動や抗議運動。代表的なものとして、ベトナム戦争や日米安保条約改定への反対、学生の権利拡大、学費値上げ反対などがある。学生による授業放棄、ストライキ、建物の封鎖占拠などが全国の大学で起こった。*9
1960年代後半の反戦フォーク集会の光景。当時の新宿駅西口広場。(写真提供:新宿歴史博物館)
1学年下の弟の正芳氏も、同時代の空気を吸っていた若者であった。正芳氏は、1969年の「新宿駅西口広場・反戦フォークゲリラ事件」(※7)を目の前で見た、という生き証人でもある。
「あれはたしか水曜日だったと思いますが、あるとき新宿駅西口地下広場を通って帰ろうと思ったら、広場の片隅で5人くらいギターを弾きながら歌ってるやつがいたんですよ。反戦フォークや社会風刺めいた反体制的な替え歌なんかもやっていました。最初はたいした人数じゃなかったんですが、それがテレビのニュースで取り上げられると、一気に数千人の規模に膨れ上がり、そのうちにヘルメットをかぶった各政治セクトも加わって騒然たる状況になっていったんです。
最終的には、大量の機動隊が導入されて、輪になって座り込んで歌を歌う若者たちのなかに催涙弾が打ち込まれ、なだれ込んできた機動隊によって強制的に排除され多くのけが人や逮捕者を出すかたちで、新宿駅西口広場は完全に制圧されました。その頃から反戦・反体制運動のエネルギーは全国的に押さえ込まれていき、一つの時代の終わりに向かって大きな転換期に入っていったんだと思います。」
加藤則芳氏もこのような時代を、若い頃に過ごした。高度成長期を経て加速した物質主義的な世界、それに伴い進行する環境破壊。若き加藤氏に、そういった世の中のあり方に抗う意識が芽生えた。その後の国立公園や自然保護に関する著作群からも、こういった世の中への批判的・反骨的なスタンスが色濃く反映されている。
バックパッカーのバイブルとなったコリン・フレッチャー『遊歩大全』の原書は1969年に出版。その思想を伝える芦沢一洋『バックパッキング入門』は1976年に出版。
60年代後半から70年代は、「自然へ帰れ」をスローガンにしたアメリカのバックパッキング(※8)のカルチャーが日本に入ってきた時代でもある。加藤氏も若き頃に、バックパッキングにも強い影響を受けた。1949年生まれの加藤則芳氏とひとまわり上の世代のアウトドア作家である、芦沢一洋(1938年生)、野田知佑(1938年生)、小林泰彦(1935年生)なども、このバックパッキングのカルチャーに影響を受けた世代である。これらの人たちは、70年代から80年代の日本のアウトドアブームをつくっていった。加藤氏の場合は、その後の90年代後半以降にロングトレイルを伝えるバックパッカー・ネイチャーライターとして世に知られていくようになる。
学生時代に芽生えた社会に対する意識、そして世の中のメインストリームだけを是とせずに信じるものを追い求め続ける反骨精神は、時代の流れや思考の熟成期間を経て、40歳を過ぎた後に、「ロングトレイル」という終生にわたるライフワークとして結実していったのだった。
※7新宿駅西口広場・反戦フォークゲリラ事件…1969年6月28日、新宿駅西口地下広場で開かれていた、若者を中心としたベトナム戦争の反戦フォーク集会が、機動隊と衝突。道路交通法が適用されて排除されるとともに、多くの逮捕者も出た。
※8バックパッキング…バックパックを背負って旅をすること。1960年代の米国において、ベトナム戦争や環境破壊などへの反発から、自然回帰を志して生まれた旅のスタイル。カウンターカルチャーのひとつのムーヴメントでもある。
信越トレイルの構想が本格的に動き出す前の、1998年〜2001年頃に前出のとおり加藤氏は雑誌『outdoor』(山と渓谷社)にロングトレイルをテーマにした連載を掲載していた。加藤氏本人は、この頃にロングトレイルに関心を持つ人はほとんどいなかったと語っていた。しかしこの頃の加藤氏の記事は、いかに日本をロングトレイル的な発想で旅できるかというあたらしい試みに溢れている。まだ日本に本格的なロングトレイルがなかった頃のことである。
2000年前後に雑誌『outdoor』(山と渓谷社)で、日本のロングトレイルの旅を連載していた。(写真は2000年5月号の記事。)
加藤氏は、日本のさまざまな地域で、自らでルートを描いてはそれを実際につないで歩き、それを「日本のロングトレイルの旅」として発表していった。八ヶ岳山麓の当時の家から、八ヶ岳から秩父山脈を超え、青梅、多摩川沿いをとおり、新橋まで歩く旅。信越トレイル開通前に、信越県境沿いを谷川岳から苗場、秋山郷を通り志賀高原まで、上信と信越を山と集落を辿りながらつなぐ旅。開通当初のしまなみ街道を歩き、瀬戸内の島々を渡りながら本州から四国までわたる旅。九州自然歩道のうち400kmを歩き、九州の自然と文化に浸る旅。
信越トレイル「誕生前夜」であったこの頃、加藤氏は、このように日本におけるロングトレイルの可能性を模索し、自らもロングトレイルの考えにもとづく旅を次々と実践していった。
このような試みを続けるなかで、2001年に信越トレイルと運命的に出会うことになる。信越トレイルの前身となるプロジェクトである「関田山脈トレッキングルート」が立ち上がったときだった。「僕が描いていた思いは、まさにここで実現させるためにあったのではないかと、一種、運命的なものを感じた」と、本人も言葉を残している。過剰ともいえるこだわりを持ち続けたことが、夢を実現へと引き寄せたのだ。
信越トレイルの景色。自然保護の理念を持ち、官民連携の維持システムを持った日本初のロングトレイル。
ここにアパラチン・トレイルのように、地域の自然と生態系を守る理念を理解し、管理運営を民間団体やボランティアの市民が行うトレイルができる。それは子供の自然教育の場として貢献するトレイルにもなるはずだ。そう確信できる土壌が、信越トレイルがつくられようとしていた飯山(いいやま)の地域にはあったのだ。
当時の長野県・飯山市の市長である小山邦武氏がリーダーシップをとり、官民連携でトレイルを作る取り組み。地域の自然を守る意識の高い、地元住民の人々。関田山脈に残る、人々の暮らしと自然とが共存してきた歴史。まさにそれらはロングトレイルをつくる場所として、これ以上ない環境だった。(詳細は「信越トレイル・ストーリーズ#02」
こうして加藤氏が模索してきた日本でのロングトレイルの実現が、この信越トレイルにおいて叶えられることになった。当初構想にあった80kmのすべてが開通したのが2008年、加藤氏が59歳のときであった。その2年後の61歳のときに、無情にも筋萎縮性側索硬化症(ALS)が宣告されることとなる。
自身の聖地であるジョン・ミューア・トレイルを旅したときの加藤則芳氏。
自然保護の思想や官民連携による維持管理の仕組みなどを取り入れた、日本初の本格的なロングトレイルとして信越トレイルは誕生した。信越トレイルの成功によって、日本各地にロングトレイルをつくる機運が広がっていくこととなった。
環境省がつくる長距離自然歩道にも、加藤氏からの提言によって、あらたな動きが生まれていた。加藤氏はかつての長距離自然歩道の失敗を、「作ったはいいが、いかに維持するかという、最も大切なシステムを作らなかったからだ」と断言していた。またこれから作られるトレイルについても、ロングトレイルが「やたらなブームになり、いたるところに自然の虫食いのようなトレイルができ、ブームが去り、作られたトレイルがほったらかしになることだけは避けたいという思いも、一方にはある」と加藤氏は心配をしていた。
そのなかで加藤氏による提言の本質を理解し、それに共感する人たちが環境省のなかにもできはじめた。そして加藤氏も実際に歩いたことのある九州自然歩道で、その再生プロジェクトが稼働しはじめた。改めて、整備が行き届かずに消えてしまったルートや、地図情報などを含めたトレイルの情報発信、今後のルートの再整備の体制構築など、再生へ向けた有志のメンバーがアクションを起こしはじめたのだ。
三陸海岸をつなぐ「みちのく潮風トレイル」の風景。
また東日本大震災の起こる前の2006年頃から、加藤氏が「三陸トレイル」として提言を続けていたロングトレイルの構想があった。この構想が2011年の大震災によるグリーン復興プロジェクトにおける重点プロジェクトのひとつとして、本格的に動きだすことになる。大震災直後、加藤氏が病を押して環境省を訪れ、復興の道筋として三陸沿岸のロングトレイルづくりを強く訴えたことがきっかけとなった。これが現在の「みちのく潮風トレイル」である(2019年6月に青森県八戸市から福島県相馬市まで1,000km の全線が開通)。
実は九州自然歩道の再生プロジェクトに関わっていた環境省メンバーの何人かが、その後みちのく潮風トレイルのプロジェクトに中心メンバーとして携わるようになっていた。九州自然歩道で加藤氏から直接ロングトレイルと自然保護への熱き想いを聞き、フィロソフィーを受け継いだメンバーが、加藤氏の思いをみちのく潮風トレイルの活動に引き継いでいった。
加藤則芳氏は、ロングトレイルと自然保護を、自身の人生において執拗なまでに追い求め続けた。はじめは見向きもされなかった。しかしその理念を具現化したロングトレイルが、信越トレイルにおいて初めて実現することとなる。
改めて振り返ると、この信越トレイルが果たした役割は大きい。理念と仕組みをきちんともった、日本初の本格的なロングトレイルとして誕生した信越トレイルは、日本におけるロングトレイルのひな形となり全国に広がった。信越トレイルの誕生が、日本のロングトレイルのカルチャーにおいて新しい時代の始まりをつくったのだ。
自然のなかで遊び、旅をし、それを通じて自然の尊さを知り、自然が守られていくこと。それが加藤氏がロングトレイルに託した願いであった。加藤氏が残したロングトレイルの種は、確実に日本各地で芽生えている。加藤氏は、ロングトレイルという希望を私たちに残してくれた。
加藤則芳 1949年6月14日-2013年4月17日 享年63歳
トレイルカルチャーを発信するウェブマガジン。
TRAILS(トレイルズ)はトレイルで遊ぶことに魅せられた人々の集まり。トレイルに通い詰めるハイカーやランナーたち、エキサイティングなアウトドアショップやギアメーカーたちなど、最前線でトレイルシーンをひっぱるTRAILSたちが執筆、参画する日本初のトレイルカルチャー・ウェブマガジン。
有名無名を問わず世界中のTRAILSたちと編集部がコンタクトをとり、旅のモチベーションとなるトリップレポートやヒントとなるギアレビューなど、独自の切り口で発信。
https://thetrailsmag.com