信越トレイル

信越トレイル・ストーリーズStories

加藤則芳さん

文:TRAILS /写真:信越トレイルクラブ、TRAILS / 監修:TRAILS

#05 加藤則芳のあゆみ

~反骨精神とロングトレイルという希望~

ハイカーや登山愛好家のあいだでは、「加藤則芳=日本におけるロングトレイルの第一人者」と認識されている方が多いと思う。しかし加藤則芳氏の個人史をひもとくと、意外にもロングトレイルをテーマに表立って活躍したのは、63年間の人生のうち50歳を過ぎた頃からのことであったことに驚く。

加藤則芳という人間は、どのような人生をあゆみ、ロングトレイルにたどり着いたのか。加藤氏が日本にロングトレイルを紹介しはじめた頃は、その魅力を理解してくれる人は少なかった。それでもなぜ加藤氏は、ロングトレイルというものを、伝え続けようとしたのだろう。ロングトレイルに何を感じ、何を想ったのか。

国内外のトレイルカルチャーにフォーカスした記事を制作し続けてきたTRAILS編集チームが、改めて加藤氏が64年の人生のなかで書籍、雑誌、講演などに残してくれた言葉を丁寧にたどり、ご家族の言葉や、当時の歴史的な環境を合わせて、加藤則芳氏のあゆみをひもといていく。

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信越トレイル・ストーリーズ

信越トレイルは、いかにして人々を魅了し、ロングトレイルの旅へと駆り立てるのか。加藤則芳氏が込めた理念、誕生のヒストリー、トレイルを支える地域の人々。それらのなかにある「他にはない何か」を再発見すべく、長年、信越トレイルを取材してきた「TRAILS」(※)の編集チームが監修・制作した記事シリーズ。
※トレイル・カルチャー・ウェブマガジン「TRAILS」(https://thetrailsmag.com

自分の人生の最後に残った2大テーマが「ロングトレイル」と「国立公園」だった

加藤則芳氏は、大学卒業後、ジャーナリストを志望し新聞社を受けるも希望は叶わず、角川書店に入社。20代の頃は文芸誌の編集者として働いていた。30歳のときに7年間勤務した同社を辞め、30代の10年間は八ヶ岳でペンションを経営しながら、山の中での生活を送る。40歳でライターとして独立し、執筆活動に注力していく。代表作のひとつである『森の聖者 自然保護の父 ジョン・ミューア』(山と渓谷社)が出版されたのは加藤氏が46歳の年である。この頃までは、ロングトレイルの魅力を伝えるアウトドアライターというよりも、どちらかといえば自然保護の思想を研究するジャーナリストという側面が強かった。

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加藤則芳氏が愛用していたKELTYのバックパックとTHE NORTH FACEのシューズ。

加藤氏が、初めて本格的なロングトレイルの著作として上梓したのが『ジョン・ミューア・トレイルを行く バックパッキング340キロ』(平凡社)である。1999年、加藤氏が51歳のときであった。この本は、日本においてジョン・ミューア・トレイル(※1)に憧れる旅人のバイブルとなった。

加藤氏はこの頃よりロングトレイル、およびジョン・ミューア(※2)が残したアメリカの国立公園(※3)と自然保護の思想を、日本に伝えていくことに情熱を捧げていく。2008年には、自らのロングトレイルの理念を具現化した信越トレイルが全線開通し、日本においてもロングトレイルという言葉が次第に認知されるようになっていった。

しかし2010年、61歳になる年に、加藤氏は筋萎縮性側索硬化症(ALS)という難病を宣告される。加藤氏は日々悪化していく病状のなか、2013年4月17日、64歳で亡くなるまで、可能なかぎりの執筆活動や講演活動を続けた。

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「なべくら高原・森の家」にある加藤氏の所蔵書籍。アウトドアや自然だけでなく、文化、社会、歴史への関心も強かった。

亡くなるおよそ1年前に行われた、加藤氏の講演の記録が残っている。この講演の主催は、東京・三鷹にあるアウトドアショップのハイカーズ・デポ。ハイカーズ・デポは、ウルトラライトハイキングとロング・ディスタンス・ハイキングに特化した専門店であり、この講演イベントの聴衆には、ロングトレイルの旅に夢を持つハイカーが多く集まっていた。そこで加藤氏は次のように語っていた。

「私の今の大きな2大テーマは『ロングトレイル』と『国立公園』です。この病気(※ALS)になって、1週間が2日か3日しかないんです。もうコンピューターも打てなくなりましたから。ロールマウスというものを使っていて、例えば『ありがとう』と打つだけでも『あ・・り・・が・・』と、こういう(※とても遅い)スピードですから。だから原稿を書く、本を書くということはありえなくなってしまいました。

自分で選んだわけではないですけど、おのずと本当のメインテーマ以外は、全部削いでしまいました。いろんな意味で余裕がなくて。それで『ロングトレイル』と『国立公園』というのは最後まで残って、これをいろんな方にお伝えをしていきたいな、と思っています。」(2012年2月 加藤則芳 講演「自然を歩き、自然を学ぶ」より。文中※は筆者補足)

※1 ジョン・ミューア・トレイル John Muir Trail…ヨセミテ渓谷からホイットニー山(アラスカ州・ハワイ州を除くアメリカ合衆国本土の最高峰)までつづく340kmのロングトレイル。自然保護の聖地であり世界中のハイカー憧れのトレイルでもある。

※2 ジョン・ミューア John Muir…自然保護の父、国立公園の父と称されるナチュラリスト。スコットランド・ダンバー生まれ。アメリカに移住後、氷河や植物の研究に携わり、自然保護活動をスタート。1889年にヨセミテ国立公園の構想を立ち上げ、92年に自然保護団体シエラクラブを設立。初代会長となる。

※3 国立公園 National Park…1872年にアメリカのイエローストーンが世界初の国立公園に指定された。その後、ジョン・ミューアの活動により1890年にヨセミテ国立公園が誕生。この年から自然保護の考えが加速度に広がっていく。国立公園のあり方も、これまではすばらしい景観を残すことに主眼が置かれていたが、ジョン・ミューアおよびヨセミテ国立公園の誕生によって、自然を保護するという現代のあり方に変わっていった。

アメリカの「ロングトレイル」と「国立公園」に見た、旅と自然保護の理想的な形

「ロングトレイル」と「国立公園」を伝えるために最後の命を燃やした加藤則芳氏。なぜ「ロングトレイル」と「国立公園」であったのか。

加藤氏の人生のあゆみをたどって感じられるのは、自然への敬意や愛情だけでなく、よりよい世界を求めそれを世の中に提言していくという、ジャーナリストとしての使命感である。

加藤氏は自然保護のあり方を求めるなかで、「自然保護の父」と呼ばれるジョン・ミューアにたどり着く。国立公園となっているジョン・ミューア・トレイルは、ジョン・ミューアの思想を、国立公園として具現化したものである。加藤氏は、ジョン・ミューアが残した自然に対する考え方こそ、日本のなかにも根付かせるべきものだと確信した。

ジョン・ミューアのつくった国立公園は、優れた自然保護のシステムをもっている。オーバーユースに伴う自然へのダメージを抑えるための人数制限。トレイルを歩く人が守らなければならない、自然を保護するための約束事。そういった自然を守るための仕組みやルールが整えられている。「自然を楽しむ者がとるべき行動のなかには、自然を守ることが含まれる」というジョン・ミューアが残した考えこそ、日本の素晴らしい自然を残していくためにも大切なものであると、加藤氏は強く感銘を受けたのである。

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加藤則芳氏。国内外の国立公園やロングトレイルを歩き、その思想と魅力を書籍・雑誌で発表してきた。

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国立公園の自然保護の仕組みとルールにより守られている、ジョン・ミューア・トレイルの美しい景色。

ジョン・ミューアを通して出会ったロングトレイルへの興味は、より長大なロングトレイルであるアパラチアン・トレイル(※4)への関心へと広がっていく。アパラチアン・トレイルは、1925年に設立されたトレイルで、その距離は3,500kmにもおよぶ。まさにアメリカの文化と歴史が織り込まれたロングトレイルだ。14の州にまたがって連なるこのロングトレイルは、民間のボランティアによって維持されている。加藤氏はこのアパラチアン・トレイルに、理想的なロングトレイルのあり方を見出した。

加藤氏はロングトレイルの魅力を、「自然だけではなく、自然と文化と歴史をつなげる歩きになるところにある」と語っていた。そして「長ければ長いほど歴史や文化の多様性を体感することができ、人々との温かな心の通い合いが深まる」(『ロングトレイルという冒険』より)と。

加藤氏の言う国立公園とは、美しい自然を残していくための理念と方法論であった。そしてロングトレイルとは、自然のなかを旅しながら、自然と人間を深く感じ、理解するための理想的な旅の形であった。この国立公園とロングトレイルの本質に共感する人が増えること。そして日本の素晴らしい自然を守り残しながら、そのなかを旅する者が増えることを、加藤氏は最後まで願っていたのだ。

※4 アパラチアン・トレイル Appalachian Trail…正式名称は「Appalachian National Scenic Trail」。アメリカ東部のジョージア州(南端はスプリンガー山)からメイン州(北端はカタディン山)にかけて14州にまたがる総延長2,100マイル(約3,500km)のロングトレイル。1968年、初めてのナショナル・シーニック・トレイル(National Scenic Trail)に指定された。

見向きもされないなかでも「ロングトレイル」の魅力を伝えつづけた反骨精神

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トレイルを旅する加藤則芳氏。記録に残し伝えるために、カメラやPCも持ち歩いていたという。

しかしロングトレイルという旅のあり方やロングトレイルという概念が理解されるまでには、根気と覚悟を要する長い時間が必要だった。

加藤氏は1998年〜2001年にかけて雑誌『outdoor』(山と渓谷社)で、連載も含めてたびたびロングトレイルに関する記事を寄稿していた。その当時のことについて、前出の講演のなかで、次のように語っている。

「山と渓谷社の『outdoor』という雑誌があって、そこでまさにロングトレイルというテーマで連載していたんですけども、理解してくださる方がほとんどいなかった。ピークを目指す登山の原稿だったら読んでくれるんです。私もピークを目指す登山もやっているけれども、そうではない自然の楽しみ方を、どうしてもイントロデュースしたい。そう思ってずっとやってきました。」(前掲の講演より)

当時の日本においては、まだロングトレイルの価値を認めてくれる人は少なかった。しかし加藤氏には、強い確信と使命感があった。加藤氏は2005年の56歳になる年に、3,500kmのアパラチアン・トレイル187日をかけて踏破する。その旅を紀行文としてまとめた『メインの森をめざして アパラチアン・トレイル3500キロを歩く』(平凡社)は、2段組640ページというアウトドアの本としては常識破りな厚さの大作として上梓される。まさに反骨的といえる信念を貫いて作られた本である。

自分が信じたものに対するこの過剰的ともいえる執着は、父親ゆずりのものでもあった。『メインの森をめざして』のあとがきには、父・克巳氏への思いが綴られている。

「今回、エピローグを仕上げたのは、昨年(2010年)の5月。94歳の父が天寿を全うする8日前のことでした。文人であり歌人だった父、加藤克巳は、自然を旅するもの書きとしてのわたしを、常に厳しくも優しく見守ってくれていました。」(『メインの森をめざして』より)

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少年時代の加藤則芳氏(写真左)。中央が父・加藤克巳氏。(写真提供:加藤正芳)

加藤氏の父・加藤克巳氏は、前衛的な表現を取り込み、独自の短歌のスタイルを作り上げた歌人であった。現代歌人協会立ち上げや、宮中の歌会始(うたかいはじめ)で天皇から招かれて歌を詠む召人(めしうど)を務めるなどの、数々の功績を残した人である。

加藤則芳氏の弟・正芳氏に、父であり歌人であった加藤克巳氏のことついてうかがう機会があった。「父は釈迢空(しゃく ちょうくう)と号した、歌人の折口信夫(おりぐち しのぶ)に憧れていました。折口先生に憧れて、弟子になりたくて、國學院に入ったんです。でも結局は弟子にはならないんですよ。父からは『ビッグネームの懐に入ったら、それに取り込まれて、自分の感性の自由が失われる』という話を何回も聞かされました。」

父が短歌の世界に新しいスタイルを作りあげたように、息子・加藤則芳氏は従来の登山に対して、ロングトレイルを歩くという新しい旅の形を広めた。既存のものに抗ってでも、新しいものを作ろうとする反骨の精神は、父親の生き様に接してきたことで、加藤則芳氏のなかにも受け継がれていったものだったのだろう。

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加藤則芳氏が残した著作。ロングトレイルについては『ジョン・ミューア・トレイルを行く −バックパッキング340キロ』、『メインの森をめざして −アパラチアン・トレイル3500キロを歩く』、『ロングトレイルという冒険』など。国立公園・自然保護については『森の聖者 −自然保護の父ジョン・ミューア』、『日本の国立公園』などがある。

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